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2011年12月06日

最近の出来事

落語家の 立川 談志さんが お亡くなりになったそうで・・・私は あの 毒舌のおじちゃんのファンだったもんで 寂しい今日この頃。

風邪をこじらせ 自宅にいたときのこと 何気なく 父親が買ってきた 週刊誌を めくると そこに談志さんの特集があったので ページをめくってみた。

大きく写真が 掲載され、そこに 家族の言葉なんかも載っていた。

「生前 早くあの世に行きたいなどと ぼやいていたが いざ 死に直面すると 必死に生きようとしていた・・。」

そんな言葉が書いてあった。

さらに ページをめくると、連載されていたコラムの 最後となったものがでており、生前に公開されることはなかったコラムだと 出ていた。

二ページほどの コラムには 弟子の話や 自分の若い頃の話なんかがのっていた。

海が大好きで 昔は海に 小屋を借りて 朝は海で泳ぎそこから 寄席に通っていたそうだ。

後半には こんなことが書いてあった。


それは 昔を振り返る今の自分の姿。

体は 病魔におかされ 食べ物すら チューブでおくられている。

そして最後に 自分が こんな姿になるなんて 思いもしなかったと・・・。

わたしは このコラムを読んで 一年間 心に もやもやと わだかまっていたものが とれた。不思議な感覚であった。



祖母が亡くなって 一年ほど経つが わたしは この一年間 自分なりに 決着がつかず、もやもやとしたものが心の奥底にあった。

祖母は 少しずつ 少しずつ よわっていき、最期をむかえたわけであるが。

毎日のように そばで見ていたわたしも 感じることが あった。


ある日の祖母は こういった。

「自分は たくさんの人に親切にしてきたつもりなのに なんで こんな目にあうんだろうね・・・」と。

また ある日の祖母は 『元気になったら 一緒に散歩しよう」と言った。

また ある日の祖母は 『天国に はやくいきたい。 おかあさんや おとうさんや みんなにあいたい」と

そしてまた ある日の祖母は 『これからは おまえの子供ができたら そばで 面倒をみるよ」と未来を語った。


それらの言葉は 日々 変わり、そして わたしは そのそばで ただ 祖母の話をきいていた。

夜中であったり 食事の途中だったり なんでもない会話の途中であったり それらの言葉は ぽつりぽつりと 私の中に はいってきた。

黄疸がひどくなり 入院した晩のこと 夜中私が 帰ろうとすると 

勝気な祖母が なみだ目になりながら 「大丈夫かな・・?」といってきた。

末期がんの 告知を していなかったので わたしは『大丈夫だよ。そばにいるから」と 祖母の手をにぎった。

これまで そんな弱気な姿を見たことがなかったことと、なみだ目に なっていた祖母の顔がいまでも 忘れられない。


その日から わたしは 夕方から 朝まで 病院のベッドで 祖母の姿をみていた。

朦朧としている意識の中 祖母は 一生懸命

『もう少し 生きさせてください。もう少し 生きさせてください」と 拝んでいた。

夜中の 真っ暗な 病室の中、祖母の声を聞き、祖母のてをにぎる。


薬で らりっているせいか、『今日はみんなで 長野にいってきたよ〜〜」という祖母に 「そりゃ〜〜よかったね〜〜!!たのしいね〜〜」なんて 話もする。

痛みに苦しむ姿。

お見舞いにきてくれた みんなに 喜ぶ姿。

それは 全部 祖母の姿であり わたしは ただ そこにいた。


人に話すことはなかったが 医者から 最期に 一つだけ 黄疸をやわらげる 処置があるといわれていた。

おなかから チューブをさし、たまっているものを 抜くのだという。


その日の 病室には 伯父がきていたので 伯父と私は 「おねがいします」と お医者様に 申し出た。

お医者様は 『わかりました。午後に 処置をはじめます」といって 準備をすすめた。


その日の 処置までの 数時間。

伯父と二人で 祖母を 見つめていた。


ゆっくりと寝息を たてている 祖母を ただ見つめ 時間が過ぎていったのだが、

処置まで あと 30分というときに 伯父が つぶやいた。

「なんか、これで いいのかな?? おれ わかんないや・・・」と。


その言葉を 封切に 私は 声をあげて 泣いた。

涙がとめどなく出てきた。

痛い思いをして 処置をしたとしても いずれは この姿にもどってしまう。

祖母は これで しあわせなのだろうか??

涙が 次から 次へと こぼれていった。


そして 医者が 処置をしにきたとき、

わたしは こういった。

『お願いですから 処置は しないでください。 このままにしてください」と・・。


医者は 私の 顔を見ると 「わかりました。それでは 処置はしません。

けれども 処置を しないということは もって あと3日ですよ。」と。


私の 大号泣は おわらず、 医者は お辞儀をすると 病室から でていった。


そのなんともいえない 後姿は 今でも 印象に残っている。


祖母は というと そこから 2週間ほど 生きた。

『もって3日」ということだったので、その日から たくさんの人に 連絡をとった。


泣き崩れている 祖母の友人。 冷静に受け止める人。 見舞いに来ない人。

いろんな人が 過ぎていく。


そうして 祖母は 静かに 息を ひきとった。

前日に 私が 買って言った ウサギの お人形を 握り締めて・・。


月日は流れて はや一年になろうとしている。

わたしが この 一年、何に もやもや していたのか?

それは 祖母の声を 最も身近できいていたことである。

あの 言葉。

「おねがいですから もう少し もう少し 生きさせてください」。

その言葉である。


処置をしないという 決断を 下したのは 自分である。

もしかしたら 祖母は もっと生きたかったのかもしれない・・・?


それが 正しかったのか、そうでなかったのか ということではない。
どの道 後悔したところで 祖母は もうこの世にはいない。

そういうことではなく、

自分なりに そのことを 消化するのに 時間がかかっていただけなのだ。


最初の話に戻るが、

談志氏の コラムを 読み終わった瞬間。

本当に 不思議と その もやもやが消えたのだ。


文というのは そのときの 読んだ人の 環境によっても 影響をうけるものなのかもしれない。


先日 祖母の 一周忌をむかえた。

施主である 伯父は うっかり 喪服を 忘れ 朝っぱらから 怒られていた。

一番かわいがってもらった 孫の私は 前日飲みすぎて 二日酔いである。

叔母は 朝から たらふく飯をくい、 祖母の友人は 久しぶり〜〜と 顔を合わせる。


みな あいかわらずである。

みな それぞれ、自分の時間を 生きている。


ばあちゃん、 そっちの世界はどうですか?

古い友達や 家族には あえましたか??

こちらの世界も あいかわらず、 わたしも あいかわらず マイペースでやっています。

いつか 必ず もう一度 あなたに会うためにがんばります。

何処にいようが 必ず いつか あなたを 探しに いきます。

それまで がんばってください。


一周忌 万歳。


posted by MEI at 03:19| Comment(10) | 日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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